大判例

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広島高等裁判所 昭和50年(お)1号 判決

加藤新一

明治二五年四月一日生

右の者に対する強盗殺人被告事件につき、大正五年八月四日広島控訴院が言い渡した有罪判決

(同年一一月七日大審院において上告棄却の判決があり、同日確定)に対し、被告人から再審の請求があつたところ、

当裁判所では昭和五一年九月一八日再審開始決定をし、右決定は確定したので、当裁判所は検察官稲垣久一郎、

同土屋誠士関与のうえさらに審理して、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実及び本件再審関始に至る経緯

一本件公訴事実は

岡崎太四郎は、大正四年七月一〇日夜酩酊して山口県豊浦郡田耕村榎並平蔵方に立寄りたる際、同郡殿居村大田嘉助に出会し同人の所持せる提灯を借受けんと欲し、其肯ぜざるに拘らず強て之を携へ去らんとして同人の為めに突倒され、且腹部を蹴られたるも、当時酩酊し居れるのみならず其力量に於て到底嘉助に敵し難きことを知れるより、隠忍して其場を立去りしが、又同夜嘗て渡辺千吉方下婢西村ツギノを自己の妻に周施せんと申入れたる者あることを想起し、ツギノと密会せんと欲し、片田峯次をして其旨をツギノに申込ましめたるも意の如くならざるより、痛く失望すると同時に過去を追想し、自己の素行修まらざる為め屡妻と離別し、且目下百余円の負債あるも到底償却の途なきことを考へ、自暴自棄の極寧ろ自殺するに如かずと思惟し、其妹の嫁せる永富禎助方を訪ひて告別の意を表したる後、同夜一二時過頃一旦帰宅の途中、田中源吾宅前の道路に於て被告人加藤新一に邂逅したる処、被告人は予て賭博を為し諸所に負債を生じ債主の督促甚だ急にして、殊に当夜は河野喜太郎方に於て賭博を試み失敗して帰る途中なりしを以て、岡崎太四郎より同人が大田嘉助の為め暴行を受けたることを聞知するや、嘉助は必ず多少の金銭を所持せるならんと思惟し、該金を窃取して一時の急を逃げんと決意し、岡崎太四郎に対して同情の意を表し且共に嘉助の所持金を窃取せんことを慫慂したるに、岡崎太四郎が直に之に同意したるより、被告人は帰宅の上父弥太郎の仕事着を着し且鋭利なる刃器を携えて出来り、翌一一日午前一時頃、岡崎太四郎と倶に前記嘉助方に赴く途中、若し同人に発見逮捕せらるるが如き場合に立到らば同人を殺害すべき旨を謀議し、直ちに嘉助方に到りたる上、被告人は室内に忍入り、嘉助の睡眠に乗じて金品を捜索し、岡崎太四郎は土間に入りて嘉助の動静を窺ひ居れる際、同人が覚醒したるより岡崎太四郎は忽ち室内に躍上りて蚊帳の吊手を取外し、嘉助が蚊帳に纒はれて身体の自由を失へるに乗じ其場を逃走せんとしたるも、嘉助が被告人の足を捕へ之を取押へんとしたるより、蚊に被告人及び岡崎太四郎両名は、前記謀議に基き嘉助を殺害して逮捕を免れんと決意し、被告人は前記刃器を以て数回嘉助を斬り、互に格闘しつつ屋外に立出て同人を組敷くや、岡崎太四郎は携へたる手拭を嘉助の口中に押込みて其発声を妨げ、被告人は尚嘉助に斬付け其頭部胸部等に大小二三個の創傷を負はしめ、遂に之を殺害したるものなり

というものであり、これは原第二審判決が認定した罪となるべき事実である。

二本件再審請求事件及び従前の再審請求事件の各記録によると、被告人は、大正四年七月一一日午前一時ころ岡崎太四郎とともに前記公訴事実記載の犯行をなした、との嫌疑により、同月下旬ころ逮捕され、予審を経て、山口地方裁判所の公判に付され、同裁判所は大正五年二月一四日被告人及び岡崎太四郎の両名を有罪として各無期懲役に処したこと、右判決に対し被告人は無罪を主張し、また原審検事は右両名につき量刑軽きに失すると主張してそれぞれ控訴を申立て、広島控訴院に係属したこと、同控訴院は、同年八月四日右各主張はいずれも採用できないとし、ただ右第一審判決には住居侵入の所為を認めながらこれに対する擬律を遺脱した違法があるとして、右第一審判決を取消しあらためて被告人及び岡崎太四郎の両名を各無期懲役に処する旨の判決を言い渡したこと、被告人は右判決に対しさらに無罪を主張して上告したが、大正五年一一月七日大審院で上告棄却の判決がなされ、同判決は即日確定したこと、そして即日刑の執行を受け始め、広島監獄、三池刑務所、久留米少年刑務所において約一四年一か月間服役したのち、昭和五年一二月六日仮出所となり、同四四年一〇月二九日恩赦により残刑の執行が免除されたこと、この間において共犯者とされた岡崎太四郎は大正七年一二月二二日獄内において死亡し、また前記被告事件の確定記録は昭和七年六月一六日保存期間満了により廃棄され、現在ではわずかに第一審の判決書原本と第二審、上告審の各判決書謄本を残すのみとなつていること、被告人は、本件当時から犯行を真に認める供述をしたことはなく、捜査・公判を通じて終始自己の無実を主張していたが、服役中にあつても大正一四年ころ三池刑務所を訪れた正木亮巡閲官に無実を訴え情願したことがあるほか、仮出所後も昭和二六年ごろ市役所・法務局等を訪れて、えん罪を訴え、救済を求める陳情をしたことがあつたが、逐に昭和三八年三月正式に再審請求をなすに至り(当庁同年(お)第一号、以下第一次再審請求という)、これが棄却された後も同四〇年六月(当庁同年(お)第二号号)、同四二年二月(当庁同年(お)第一号)、同四五年五月(当庁同年(お)第一号)、同四九年六月(当庁同年(お)第二号)と相次いで再審を請求し、これらはいずれも棄却されたが、ようやく本件再審請求においてその申立がいれられて再審開始決定をうるに至り、これが確定したことが明らかである。

第二再審公判の審理

本件は、前述のとおり大正四年中に公判に付され、同五年中において判決が確定したものであり、旧旧刑事訴訟法(明治二三年法律第九六号)施行下の事件であるが、刑事訴訟施行法第二条、旧刑事訴訟法附則第六一六条第一項により旧刑事訴訟法(大正一一年法律第七五号)及び日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急措置に関する法律に従い審理すべきものであるところ、右旧刑事訴訟法第五一一条によれば、再審開始の決定が確定したときは、特に定められた場合のほか、その審級に従いさらに審判すべきものとされており、本件はこれに該当するが、この場合は従前の確定記録及びあらたに取調べた証拠によつて、あらたに審判をするのであり、原判決の当否を判断するものではなく、ただ再審の判決が確定したとき原判決は当然その効力を失うに至るものである。

ところで再審公判における審理の基礎となるべき確定記録は、本件においては既に廃棄され、関係判決の原本ないし謄本のみが保存されているに止まることは前叙のとおりであつて、本件再審公判における事実認定に際し多大の困難と制約があることは否み難いところであるが、幸い原第一審、第二審の各判決書には詳細な理由が付された証拠の説示がなされており、そこに掲示されている証拠の標目およびその内容は、そのまま本件確定記録中に存したものと判断して差支えない。このことは、旧旧刑事訴訟法第二〇三条が有罪判決書の要件として、「罪となるべき事実及び証拠によりこれを認めたる理由を明示」すべきものと定め、また同法第二六九条第九号において「裁判に理由を付せずまたはその理由にそごあるとき」は常に法律に違背したものとされ、同法第二六八条第一項によつて上告理由となる旨定められていたことからみても十分支持されるであろう。

それにしても、判決書の証拠説示は、元来すべての証拠をもれなく網羅しうるものではないし、また罪責決定に至る心証形成の過程も完全に文面に表現しうる性質のものではないから、判決書の記載のみから推論を進めざるをえない本件の如き場合においては、その記載から明確に推知しうる事項については、そのまま右記載を根拠に判断を進めることが許されるであろうが、判決書に記載されていない事項については、前記旧刑事訴訟法及び刑訴応急措置法の規定に従つたうえで、あらたに提出された証拠につき慎重な検討を加え、その証拠としての適格性を十分吟味したのち、判断の資料として採用すべきものであることは当然である。

このような見地から本件において提出された種々の証拠を見るとき、特に問題があるのは、事件の発生、捜査の経過、第一審公判手続を報道した当時の各新聞記事であるが、これらもその報道内容に応じて立証事項を限定し、あるいは他の資料の証明力を補充ないし吟味する等のためには十分使用可能であると考える。殊に、大正四年一一月二日付関門日日新聞夕刊に掲載されている予審終結決定書は、別紙のとおりであつて、その体裁、文体、用語、記事内容等に照らし、被告人及び岡崎太四郎の両名に対する予審終結決定書を全文掲載報道したものと認められるものであり、右記事のみからは右決定日付は不明であるが、大正四年一一月二日以前のほど遠くない時期において、被告人らは右決定により山口地方裁判所の公判に付されたものと判断される。(なお、大正四年一一月二日付馬関毎日新聞は、一一月一日右決定があつた旨報道している。)

第三原第二審、第二審判決に各掲示の証拠の検討

原第一審判決は、その証拠として

1  岡崎太四郎の公判廷における供述

2  被告人の公判廷における供述

3  岡崎太四郎の第一回予審尋問調書

4  岡崎太四郎の第二回予審尋問調書

5  岡崎太四郎の第三回予審尋問調書

6  証人榎並タネの予審尋問調書

7  証人片田峯次の予審尋問調書

8  岡崎マサの聴取書

9  検事の実況検分書

10  医師重村正彬作成の検案書

11  鑑定人安西茂太郎作成の鑑定書

12  証人安西茂太郎の公判廷における供述

を掲げ、それぞれの要旨を説示するほか、特に証拠としては掲げていないが理由中の文面から判断して

13  証第九号筒袖じゆばん

14  証第一〇号筒袖木綿ひとえ

が押収されていることが明らかである。

また、原第二審判決は、その証拠として

イ  岡崎太四郎の第二審公判廷における供述

ロ  被告人の第二審公判廷における供述

ハ  前記3の証拠

ニ  前記9の証拠

ホ  前記10の証拠

ヘ  前記11の証拠

のほかに、次の証拠を掲げ、それぞれその内容を摘示している。

ト  山口県警部補長尾宗之進作成の加藤弥太郎の第一回聴取書

チ  右同人作成の林ミツの聴取書

リ  右同人作成の林利吉の聴取書

ヌ  警部代理巡査部長鍋武九一作成の桂太市の聴取書

ル  被告人の第二回予審尋問調書

そして、原第二審は、右イないしルの証拠によつて、前記第一記載の公訴事実のとおり罪となるべき事実を認定しているのである。

そこで右各証拠の内容を概説すると、1、3ないし5及びイの岡崎太四郎の供述内容は、被告人と深夜路上で出会い大田嘉助方に赴き金員を奪取することを共謀し、被告人とともにこれを実行してその際右大田を殺害したものである旨自己及び被告人に関する全面的自白を内容とするものであり、6、7、8は右述のように岡崎太四郎が被告人と同夜出会うまでの右岡崎の言動に関する裏づけ証拠であり、9ないし12は犯行現場の状況、被害者大田嘉助の死体解剖結果、押収衣料に付着していたという血痕ようの痕跡の鑑定に関するものであり、13は被告人の父弥太郎の仕事着であるが、岡崎太四郎の供述によれば同夜被告人が着用していた品と思われるというのであり、14は岡崎太四郎の同夜の着衣であり、トないしルは本件発生前大田嘉助が少々の金子を所持していたと認められること、また被告人は本件発生前、借金の支払の猶予を求めていたことがあるのに本件発生後少なからぬ金員を所持していたと認められることについての証拠であつて、2およびロの被告人の各公判廷における供述は、大田嘉助と賭博をしたことがあり、同人方に泊つたこともあつて同家屋内の様子はよく知つていること、本件当夜は河野喜太郎方で賭博をし、持参していた金二〇銭全部を負けたので同夜一〇時ごろ同家を出て帰宅したこと、本件発生前借金の支払の猶予を求めたことがあること、証九号の衣類は父の仕事着であること、警察署に連行される際七円一〇銭在中の箱を父に預けたことがあること等を認めた供述であつて、精々自己に不利益な事実の一部を認めているにとどまり、本件犯行に関与したか否かについては全く触れていないものである。

右のように原第一審、第二審の判決書の証拠を対比するとき、まず前者が共犯者岡崎太四郎の供述と、同人が本件犯行当夜大田嘉助と提灯のことでいさかいをしたこと、その後妹をその婚家に訪れ、暇乞いをして辞去したこと等、右岡崎の本件犯行につながる同夜の言動に関する補強証拠と見られるものを掲げており、いわば右岡崎の供述の信用性を担保することに力点を置いて証拠説示をしているのに対し、後者はむしろ岡崎太四郎の自白のほかに、被告人の所持金に関する証拠を補強として挙げ、むしろ岡崎太四郎の供述はそれ自体信用に値するとして、被告人の行状、所持金等に関する補強証拠に力点を移したものとみられるという相違があることが明らかである。すなわち、右各判決において、被告人が犯行を認める趣旨の供述をしていないことが先ず看取されるのであつて、このことは、原第二審判決書中に「無罪ナリトノ被告新一ノ控訴ハ採用スヘカラス」と記され、また上告審判決書中に「被告人ハ本件犯罪ヲ犯シタル者ニ非サルコトヲ叙述シ」とあり、さらには本再審請求に際しての被告人尋問調書中において被告人が詳しく述べていることとそれぞれ合致しているのである。次に明らかなことは、いずれの判決も、岡崎太四郎の捜査ないし公判における供述をもつて、被告人を有罪とするについてめ強力な証拠としている点である。各判決の証拠説示を通読すれば明らかなように、同人の供述なくしては被告人の有罪はありえなかつたと評しても過言ではない。この意味において、右供述の信用性については十分な検討を要すると言える。さらに進んで別添予審終結決定書と原第一審、第二審各判決書とを仔細に比較検討すると、(1)岡崎太四郎が供述している被告人の携行した兇器について、前記1の証拠中では「藁切」といい、同3では「押切」ともいい、さらに原第二審判決書が右3を掲げた個所においては「押切(藁切刀)」と記してある一方、予審終結決定書においては「藁切り押切刀」とも「押切刀」とも表現されていて、概ね特定しえたと認められるにもかかわらず、罪となるべき事実中では何故か「釈利ナル刃物」(原第一審)とか「鋭利ナル刃器」(原第二審)という漠然たる表現にとどまつており、使用兇器そのものが押収されていないのではないかと認められること、(2)大田嘉助方に押入るに際し岡崎太四郎は手拭で鉢巻をしていた模様であり(予審終結決定書、前記3の証拠)、被告人に切りつけられ同人と格闘中の大田嘉助の口中に右手拭を押し込みその発声を妨げたという(各判決の認定事実)のであるが、右手拭が公判廷において取調べられた形跡はなく、押収されていなかつたのではないかと認められることが明らかであつて、右のような極めて重視されるべき物証が不明確なままに終つていることから見ても、なおさら岡崎太四郎の供述の信用性の判断は慎重にしなければならないと言える。

第四岡崎太四郎の供述の信用性

一証人石井信太郎尋問調書(昭和五一年一月二〇日付)、同三浦静雄尋問調書(同年一月二一日付)、第一次再審請求における証人三浦静雄尋問調書、右請求に際しての三浦静雄、榎並タネ、被告人の各(録音)速記録(同事件参考記録参照)、証人片田峯次尋問調書(昭和五一年一月二一日付)、被告人尋問調書(昭和五一年四月七日付、同年四月八日付、同年五月一九日付)、原第一審、第二審各判決書等を総合すると、事件が発覚して岡崎太四郎が逮捕されるまでの状況は概ね次のようであつたと認められる。

大正四年七月一一日早朝、山口県豊浦郡殿居村に居住する大田嘉助(慶応元年四月七日生)が、その常住する炭焼小屋前の水田の中で重傷を負つて死亡していた。右水田の所有者重見善次(後記新聞記事には「善次郎」とある。)なる者が水廻りの途中これを発見して急報し、直ちに捜査官が急行するとともに消防団員も招集されて捜査が開始された。検事が現場に臨み実況を見分し、また医師重村正彬によつて翌一二日には死体が解剖され、創傷の数とその程度、死因等が明かとなつた。これと並行して村人からの聞き込みや事情聴取が行なわれた。被告人も七月一〇日夜、隣村の田耕村に住む河野喜太郎方(当裁判所の検証調書によると、被害者大田嘉助宅は、右河野宅に近くかつ被告人宅寄りにある。)で賭博をしたことがあつたため、同夜ともに賭博をした内田又市らとともに事情聴取を受け、また、榎並タネは臆病だつたので殺害現場を見に行かなかつたためかえつて疑われ取調べられるようなことがあつた。

一方、岡崎太四郎は兇行後下関市方面に遁走していたが、七月二〇日ごろ自宅に舞い戻り、かみそりで自殺を企てるようなことがあつたが、結局七月二〇日過ぎに逮捕されるに至つた。

右認定の事実は、当時の捜査状況を報道する新聞記事の内容からもほぼ真実であると認められる。すなわち、大正四年七月一一日付関門日日新聞夕刊には「本朝午前六時頃豊浦郡殿居村農重見善次郎が附近に草刈に赴きたる際一人の男面部に重傷を負ひ水田に俯向たるまま絶息し居るを発見しかくと駐在所に急報せるより」とあり、同月二七日付同新聞には、「太四郎は……二二日ぶらり自宅へ帰りたるを難なく取押へられ厳重なる取調べを受け遂に包み切れず前記の始末を自白したるが新一も是まで数度嫌疑者として召喚されしも有力なる証拠品なきため放還されしも今回太四郎の自白により兇行者たること判明し昨日取押へられ」とあり、また同月二八日付同新聞には「太四郎は……一八日窃に帰宅し……二二日前記三刑事踏込みたる時にも剃刀にて割腹を企て既に腹部を一文字に掻き切り居たるも軽傷なりしより其まま西市分署へ引致し……」とあるのである。

二右新聞記事によると、岡崎太四郎は逮捕されたのち直ちに被告人との共犯である旨を自供した如くであるが、実はその前に榎並平蔵(前記公訴事実中にその氏名がある)、タネ夫婦との共犯である旨を自白した事実がある。

被告人は、昭和三八年五月二〇日豊田町殿居の古老河田音蔵から右事実を聞かされ、自分より先に岡崎太四郎の自供によつて榎並夫婦が逮捕されていたことを初めて知つた(第一次再審請求事件記録九八丁以下、同事件参考記録中の被告人の供述一一丁以下)。そして、同年八月三〇日現地において、右第一次再審請求弁護人鈴木惣三郎らは右榎並タネから事情を聴取してこれを録音し(前記請求事件記録一五三丁、ただし一六三丁裏には八月三一日聴取とある)、翌三九年一月二五日同女は証人として尋問されたが、その述べるところは大略次のとおりである。つまり、「大田嘉助は私宅から二町ぐらい離れた所に住み、炭焼きをしていた。同人が殺害されたことはその朝知つたが、臆病なので死体現場には行かなかつた。しかしその数日後の早朝に五、六人の警察官がやつて来て、自分と夫平蔵の両名を嘉助殺害の容疑者として手をくくり浮石村の小牧という民家に連行した。朝から午後三時ころまで、お前らがやつたのだろう、やつたという人がいる、現場を見に行かなかつたのはやつたからだろう、嘘でもいいからやつたと言え、と五体をがんじがらめにくくり一尺程の棒でたたくなどして厳しく取調べられた。覚えがないから殺しに行つたとはよう言わないと答えていたが、西市に連行するがそれでも言わんか、下関に出すがよいかと責められたが、どこまで行つてもよう言わないと答えとおし、結局西市分署に連行された。そこで警察官立会のうえ岡崎太四郎に会わされた。私は同人に、この場所に出て嘘は言われんから当り前のことを言いなと言うと、同人は、新さん(被告人を指す)と親族じやから、新さんを助けようと思つてあなた方に難を言うた、こらえてくれ、とあやまつた。すると警察官は、それみい嘘ばかり言うから、とすぐ岡崎太四郎を連れ出して行つた。自分達夫婦は一晩泊められて翌朝帰えされたが、それは、浮石村の小牧で、主人平蔵が事件前日炭を売りに馬車で下関に出て当夜は下関に一泊していたから、そのことを言つたら、警察はすぐ電話で下関に照会し、西市分署にいる時それが事実だと判明したからである。私らが釈放されたのち被告人が逮捕された」というのである。

右榎並タネの供述は、同女が八三歳の高令のとき、五〇年前のことを聞かれて述べたものであること、原第一審判決書に掲げられている同女の予審尋問書中に現われている同女宅での岡崎太四郎と大田嘉助との提灯をめぐつての争いには全く関与していないと述べていること、証人尋問と(録音)速記録との間にも多少のくいちがいのあること、などからすると、全面的に信用することは慎しむべきであろうが、しかし、右供述によつて、少くとも本件事件後榎並平蔵、タネ夫婦が大田嘉助殺害の容疑者として逮捕されたこと、それは岡崎太四郎の逮捕後でありかつ同人が榎並夫婦との共犯を自供した結果によるものであること、しかし榎並平蔵について当夜下関にいたというアリバイが判明したため右両名とも釈放されたものであること、その後に被告人が逮捕されたものであること、の各事実は明らかであると認めて差支えない。証人三浦静雄尋問調書には、同証人も当時榎並夫婦が逮捕されたことを聞いて知つていると述べているが、ことは右認定が正しいことを裏付けるものである。ところで岡崎太四郎は何故榎並夫婦との共犯を自供したのであろうか。右榎並タネの述べるところによると、被告人と親戚になるから被告人を助けようと思つて榎並夫婦を共犯に仕立てたという理由しか考えられない。しかし、右親戚という点は、各関係除籍謄本、戸籍謄本等によると、岡崎太四郎の兄吉五郎の妻ヨシノが被告人の妻フユノの母タカの妹にあたるという程度のかなり遠縁であること、原各判決書によると被告人は殿居村、岡崎太四郎は隣村の田耕村であり、かつ同人は被告人より一四歳年長であることが明らかである程度で、被告人は岡崎太四郎とはほとんどつき合いがなかつた旨述べているけれども、右両名が当時どの程度の交際があつたかは現在では明らかにすることができない。しかし右親戚になるというのみでは、岡崎太四郎が当時全く無縁の榎並夫婦をこのような重大事犯の共犯者に仕立ててなお被告人をかばう程の理由になるとは考え難い。この点につき被告人は第一次再審請求の申立書以来ほぼ一貫して、岡崎太四郎は被告人に妻子があるから助けてやろうと思つたが兇器の出所がないので仕方がなかつたと言つた旨述べており、親戚だからかばつたとは言つていないと述べている。右兇器の点については後に触れるとして、被告人に妻子があつたからという点も、榎並夫婦にも子供二人があつた(第一次再審請求事件記録二六二丁、右事件参考記録によると一人は実子、一人は夫の弟の子である)のであるから、被告人をかばう特段の理由にはならないように思われる。原第一審、第二審判決の記載によると、岡崎太四郎が大田嘉助を殺害するに至つた動機としては、当夜榎並タネ方の庭先で、右太四郎が嘉助から提灯を借用しようとしてその承諾がないのに持つて行こうとしたため、嘉助が怒つて太四郎に暴行を加えた一件があつたことが明らかで、あるいはこの件が警察の探知するところとなり太四郎が疑われたのではないかと推察されないわけでもなく(大正四年七月二八日付関門日日新聞夕刊には「当夜太四郎は嘉助と提灯争いをしたる事実を聞知しここに逮捕の端緒を得」とある)、あるいはそのことから太四郎の取調に際し榎並夫婦の名前が出て、太四郎がこれに乗じ窮余同夫婦らとの共犯を自供したのではなかろうかと推測する余地もなくはない。いずれにしても、前記「親戚だから」とか「妻子があるから」とかいつたことは、その場かぎりのもとつもらしい口実にすぎないように思われるし、後記のように被告人が主犯であるというのであるから、何故早くその名前を出し、自分は追従して行つたに過ぎないと供述しなかつたのであろうか。

それはともかく、岡崎太四郎が被告人をかばうために被告人との共犯を単に秘していたというのではなく、何の関係もない榎並夫婦、とりわけ女性までも本件のような重大事犯に引き入れるような自供をしているのであつて、幸いにして榎並平蔵に明確なアリバイがあつたため同夫婦は釈放されて難を逃れたものの、アリバイがなかつた場合果して同夫婦らはよく逃れえたであろうかと想像するとき、同夫婦らが被告人の今日の立場に立たされたかも知れないとさえ言える。しかも、榎並夫婦との共犯が崩れたことによつて、岡崎太四郎の虚偽の自供に対する糾明はさらに激しくなつたであろうことが当然推察され、その結果がさらに虚偽の自白を生み、被告人との共犯を作り出すことに発展して行つたのではないかと疑われないでもなく、少なくともこのような疑念を抱くことには十分理由があると言える。

右に関速して、三浦静雄(昭和五一年三月一六日)、和田豪祐(同月一七日付)、吉坂清石(前同日付)の司法警察員に対する各供述調書等には、岡崎太四郎はおとなしい性格の持主で嘘をつくような人ではない趣旨の記載があるが、これらはたやすく信用できるものではない。

三岡崎太四郎の供述内容

既に第三において少しく触れたように、原第一審、第二審判決書中、本件犯行の状況について直接述べているのは、岡崎太四郎のみである。同人が本件当夜一二時すぎころ、田中源吾宅前道路上で被告人と出会つてから、本件殺害に至るまでの間の経緯について、その述べるところを摘記すると次のようである。

1  加藤ニ出会ヒタル際大田嘉助ト提灯ノコトニ付キ口論ヲ為シ同人ニ突倒サレ蹴ラレタルコトヲ話シタルニ加藤ハ嘉助ハ金ヲ持チ居リタルヤト問ヒ尚僅カ提灯位ノコトニテ馬鹿ニサレルコトハナイ同人ハ金ヲ持居ル故取ツテ遣ロウデハナイカ俺レモ行クカラ共ニ行ケト申シタルヲ以テ之ヲ承諾シタルガ加藤ハ一応帰リ来リ若シ嘉助方ニ到リテモ金ハ取レズ逃ゲラレヌトキハ之デ遣ツテ遣ルト申シ藁切ヲ示シタリ自分ハ判示ノ如ク加藤ト共ニ大田嘉助方ニ赴キタルモ同人ヲ殺害スルノ意思ナク金ガ取レレバ取リ取レナケレバ其ママ逃ゲル考ニシテ又加藤ガ嘉助ニ斬付ケタルヤ否ヤ知ラザル旨(原第一審公判廷における供述)

2  田中源吾ノ表道ニ来タ時加藤新一ニ出逢ヒタルヲ以テ自分ハ今夜ハ女ニハ嫌ハレ大田嘉助ニハ酷イ目ニ合ハサレタト話シタルニ新一ハ君ハ嘉助ニ出逢タト云フガ同人ハ金ヲ持居ル様子ハナカリシヤ(金ヲ持チ居ル様子ナリシカ)ト聞キタル故知ラヌト申シタル処加藤ハ金ヲ持居ル筈ナルガ提灯ノ貸借位ニ酷イ目ニ合ハス様ナ人ヲ馬鹿ニシテ居ル奴故ヤツテヤローデハナイカト申シタルヲ以テ自分モ之ニ同意シタルニ加藤ハ一寸待テト云ヒテ(用意シ来ルトテ)東方ニ行キ(自宅ニ行キシモノト思フ)約十分計リシテ帰リ来リタルカ其時(加藤ガサー行カウト云ヒテ来リタル時)同人ハ押切ヲ持チ衣類モ腰切レ様ノ物ニテ襦袢ヨリ少シク長キモノト着代ヘ居リタリ自分ハ加藤ニ向ヒ汝ハ今頃何処ニ行キテノ帰リナルヤト問ヒタルニ同人ハ皿山ニ博変ヲ打ニ行キテ其帰リナリト答ヘ夫ヨリ行ク道デ互ニ身ノ上話ヲ為シ自分ハタ方ヨリノ出来事ヲ一切物語リ親父ノ馬ヲ貰ヒテ売飛バシ其金ヲ以テ飲ミタイ丈ケ酒ヲ飲ミ何処カヘ行キ生キテハ帰ラヌト申シタルニ加藤ハ自分モ博変ヲ打チテ親ニ肝ヲ焼カセテ居ルト答ヘタリ尚自分ハ嘉助方ニ行キ如何様ニヤルカト問ヒタル処嘉助ノ寝込ヲ窺ヒテ金ヲ探シ若シ目ヲ覚マシタラバ蚊帳ノ吊手ヲ外シ呉レヨ左スレバ嘉助ガ蚊帳ノ中ニモツレテ居ル間ニ逃ゲルコトニスルト申シタリ依テ進ンデ金ハ探シ当ラズ蚊帳ハ切落シテモ二人ノ内一人ガ捕ヘラルル様ナコトアリテハ発覚スルナラント(発覚スルニアラスヤト)申シタルニ加藤ハ左様ナ場合ニハヤツツケル外ハナイト申シ手ニセル押切(押切「藁切刀」)ヲ示シナガラ榎並平蔵ノ前ヨリ県道ヲ横ニ左ニ取リ田ノ中ノ道ヲ通リ抜ケテ川ヲ渡リ尚田ノ中ト畑ノ道ヲ通リテ嘉助方ニ行キ加藤ハ入口ノ戸ヲ静ニ押シテ内側ニ開キ入リタルヲ以テ自分モ(跡ヲ追ヒテ)忍入リ土間ニ脆イテ上リ枢ニ額(頭)ヲ当テ静ニ様子ヲ窺ヒ居リタリ其時加藤ハ蚊帳ノ所ヨリ蚊帳ノ内ヲ探リ居リタルガ嘉助ハ目ヲ覚マシタル様子ナリシヲ以テ(目ヲ醒シテ立上ル風カ見エタルヨリ)自分ハ約ノ通リ直ニ飛上リテ三方ノ吊手ヲ引落シ(上リタル処ニ在ル吊手ヲ除ケテ左ヘ廻リ三方ノ吊手引落シ)豫定ノ通リ逃ゲル積ノ処加藤ガ嘉助ニ足ヲ捉ヘラレタル為カ逃ゲキラヌ故早ク出デヨト引張リタルニ加藤モ漸ク開キノ外迄出デ来リタリ其時嘉助モ蚊帳ヲ被リタル儘加藤ノ足ヲ放サズ居リタル為カ出来リタルガ(私ハ入口ニ出テ見タルニ)加藤ハ既ニ馬乗リニ乗リ嘉助ハ蚊帳ノ中ヨリ頭丈ケ出シギヤギヤ声ヲ立テタル故自分ハ世間ニ聞ヘテハナラヌト思ヒ(私ハ嘉助ヲシテ声ヲ出サセヌ様)自分ノ鉢巻ヲ為シ居リタル手拭ヲ外シテ嘉助ノ口ノ辺ヲ押ヘタルニ汗カ血カ分ラザルガ嘉助ノ顔ヤ胸元ハヌルヌル(スルスル)シテ居リタリ嘉助ハ大分ヤリツケラレテ弱リ居リタルヲ以テ加藤モ離レ二人共逃ゲラレルコトト思ヒ自分ハ川ノ方ニ逃ゲテ小サキ板橋ガアルガ其処迄行カヌ時分ニャーツト云フ何トモ云ヘヌ身ニ染ミル様ナ声ガ聞ヘタリ夫ヨリ自分ハ夢中ニナリ県道ノ方ニ駈ケ出シタル旨(其後ノ事ハ知ラサル旨、加藤新一ト共謀シ大正四年七月十日夜強盗ノ目的ヲ以テ大田嘉助方ニ闖入シ嘉助ヲ殺害シ金員強奪シタルコトハ確ニ相違ナキ旨)(第一回予審尋問調書、原第二審判決中の引用文中には、第一審判決文中には現われていないか、または異つた表現をしている部分があるので、そのうち重要と思われる部分を( )内に記した)

3  当夜自分ハ證第十号ノ単衣ヲ着用シ居リ又加藤ガ自宅ニ帰リテ着代ヘ来リタル腰切ハ自分ノ当夜ノ着衣ヨリ少シク白ク縞ノ無キモノノ様ニ思ハレ縞ノ襦袢ガ仕事着ノ為メ古ク白ク剥ゲタモノトモ見エ又夏襦袢ノ古ビタルモノトモ見エ袖ガ筒袖ナリシコトハ確カニ覚ヘ居ルガ證第九号ノ品ト思フ旨(第二回予審尋問調書)

4  新一ハ大田ハ賭博ニテ大分勝チ金ヲ持チ居ル故大田ノ処ヘ行キ金ヲ取ルヘケレハ同行セヨト申シ私モ行ク気ニナリタリ押収第十号ノ衣服ハ自分ノ所有ニシテ本件ノ当時着用シ居タリ当夜嘉助方ヨリ帰宅シタルハ一時半頃ナリシト思フ旨及被告新一カ押収第九号襯衣ヲ着セルヲ見テ七月十日夜嘉助方ニ同行シタル時ノ新一ノ風体ニ此有様ハ能ク似テ居レル旨(原第二審公判廷における供述)

以上煩をいとわず記述したが、岡崎太四郎が本件犯行について述べていることは、すべて右に尽きているのである。

四右供述内容の検討

1  原第一審、第二審判決の骨格とも見るべき岡崎太四郎の供述内容を検討するに当り、特に指摘しておかなければならないことは、右各判決の構成は既に第三に記したとおりであるけれども、右各判決の基礎となつた確定記録中には、各判決が掲記している証拠以外にも多数の証拠資料が存したに相違なく、その中にはあるいは岡崎太四郎の供述の信用性を担保するものが有つたかも知れないということである。原各判決裁判所はそのような証拠をも検討したうえ、岡崎太四郎の供述を信用に値するとして、信用性を担保する証拠をとりたてて遂一網羅しなかつたのかも知れないと考える余地がないではない。しかし、岡崎太四郎の言う被告人と出会つてのちの言動については、原各判決掲記の証拠のほかに信用性を担保するに足る証拠が存したとはまず考え難く、もしそのような証拠があつたとすれば、被告人は全面的に否認していたのであるから、当然判決書中に明記したであろうと判断して誤りないであろう。このような前提の下に検討を進めることとする。

2  まず指摘すべきことは、前記三、2の中に「自分ハ加藤ニ向ヒ汝ハ今頃何処ニ行キテノ帰リナルヤト問ヒタルニ同人ハ皿山ニ博奕ヲ打ニ行キテ其帰リナリト答ヘタ」とある点である。岡崎太四郎は犯行後出奔していたのであつて、犯行当夜被告人が皿山に博奕に行つたことは、被告人または右事情を知る者から聞かされない限り知りえないことであると思われるからである。確かに当夜被告人は隣村田耕村の河野喜太郎方に賭博に行つていたのである。しかし、この事実は、岡崎太四郎が逮捕される以前に、既に捜査官において知つていた事項であつて、その故に被告人も一旦は疑われたことがある(前記第四、一)のであるから、岡崎太四郎の供述によつて初めて捜査官に明らかとなつたこととは思われない。従つて、右の被告人の発言とされている部分をとらえてこれを重視することは許されるべきではないであろう。

検察官は、右の点をとらえて、岡崎太四郎の供述の信ぴよう性が強く支持されると言うけれども、それは全く失当である。

3 次に、岡崎太四郎の前記供述を通読して感じられることは、同人が全行程を通じ被告人の言のままにその意に従い、専ら追従的行動に終始したに過ぎないように供述し、自分を被告人に比して刑責の軽い立場に置こうとしているのではないか、と疑われることである。つまり、同人は当夜大田嘉助から同人の提灯のことで殴打されたうえ、密会を望んだ女性からも拒まれたことなどを思いめぐらし、妻には二度も去られ百円ほどの負債も生じていることなど考えあわせ、厭世感を生じ、自殺を決意して妹マサをその婚家に訪れ、同女にぐちをこぼし一時家を出ようと思う旨語り「殆ド死スルト云ハヌ計リノ話ヲ為シ別レノ積ニテラムネヲ貰ヒ妹ニモ半分飲マセ」て同家を出て一旦帰宅の考えで歩いていた時「偶々」被告人に出会つたのであるが、その際一四歳も年下の被告人から「ヤツテヤローデハナイカ」と誘われてこれに同意したところ、被告人は直ちに帰宅して衣服を着替え、かつ自宅から鋭利な押切(藁切刀)を携行して来たというのである。果してそうであるならば、深夜田中源吾宅前の道路上で「偶々」出会つた両名が、大田嘉助は金を持つているはずだから「ヤツテヤローデハナイカ」と話合い、被告人は岡崎太四郎をその場に待たせて自宅に帰り、事と次第によつては強盗殺人をも犯すことを予想して必要な兇器を準備して来たこととなるが、このようなことは、両名に一四歳という年令の差がありしかも年少者が発意しようようしていること、居村の異なること、深夜偶然出会つたにすぎないこと、人家の前の県道上であること、被告人は窃盗にとどまらず強盗殺人をも予期していたと見ざるをえないこと、等の諸事情を考慮するとき、謀議の成立した状況としてはいかにも唐突で不自然の感を免れないものがある。

このことは、大田嘉助方に至る道中の謀議の内容にも窺えることであつて、被告人に対し「嘉助方ニ行キ如何様ニヤルカ」と問い、「寝込ヲ窺ヒテ金ヲ探シ若シ目ヲ覚マシタラバ蚊帳ノ吊手ヲ外シ呉レヨ左スレバ嘉助ガ蚊帳ノ中ニモツレテ居ル間ニ逃ゲルコトニスル」と言われるとさらに「金ハ探シ当ラズ蚊帳ハ切落シテモ二人ノ内一人ガ捕ヘラルル様ナコトアリテハ発覚スルナラン」と問うたところ、被告人は「左様ナ場合ニハヤツツケル外ハナイ」と言い「手ニセル押切ヲ示シ」たというのであつて、専ら被告人の意向を伺い、犯行の手段、方法、役割分担について被告人の指示に従つたにすぎないように述べており、その情景はいわば被告人一人勇躍しており、岡崎太四郎自身はいかにも遅疑逡巡しつつ追従して行つたかのようである。

大田嘉助方においても同ようであつて、被告人が先に入つて物色し、岡崎太四郎は土間にあつて様子を窺つていたところ、嘉助が目覚めたようであつたから「約ノ通リ直ニ飛上リテ三方ノ吊手ヲ引落シ予定ノ通リ逃ゲル積ノ処」被告人が嘉助に足を捕えられて逃げられず同人に「馬乗リニ乗」つており、嘉助が声を出すので鉢巻をしていた手拭を外して嘉助の口をふさぎ、「嘉助ハ大分ヤリツケラレテ弱リ居リタルヲ以テ加藤モ離レ二人共逃ゲラレルコトト思ヒ」逃げたのでその後のことは知らぬが、川の板橋の所まで行かぬうちに何とも言えぬ声を聞いた。自分としては、「殺害スルノ意思ナク金ガ取レレバ取リ取レナケレバ其ママ逃ゲル考」えであつて、被告人が「斬付ケタルヤ否ヤ知ラ」ない、というのである。ここでも兇行の主役は被告人であつて、被害者が受傷したり金員が強取されていたとしても岡崎太四郎の関知するところでなく、同人はかねて指示されていたとおり蚊帳の吊手を引き落し、嘉助の口を押えて発声を妨げる程度のことしかしていない、というのである。そこに岡崎太四郎が自己の関与、責任をことさら過少に表現し、つとめて被告人に責任を転嫁しようとしている意図があるかに読み取ることは必ずしも不自然ではなかろう。

このように岡崎太四郎は、謀議の成立した当初から殺害実行に至る間において、終始自己は追随的立場にあつたに過ぎずとしてつとめて被告人を前面に押し出そうという供述態度が見受けられるのであるが、このような共犯者の供述が、ともすれば真実の発見を誤らせる結果を招来しやすいものであることは、経験的に知られていることである。殊に他の共犯者が強く事実を否認している本件のような場合に、右のような責任回避的な共犯者の供述に全幅の信頼を措き、否認している他の共犯者の有罪を認定することは慎重でなければならず、警戒すべきことであると言つてよい。

4  被告人の述べるところによれば、岡崎太四郎は、当初榎並タネ夫婦との共犯を自供した際にも、自分は追従的立場に過ぎなかつた旨供述していたという。それによると、「榎並平蔵が岡崎太四郎に同情して同夜平蔵宅で同人妻タネの酌で酒を飲み、その勢いで平蔵が藁切刀を携えて先立ちになり、タネと太四郎がこれに従つて嘉助宅に至り、平蔵が嘉助を殺害したのを見て恐ろしくなつたから逃げ帰つたので、その後のことは知らない」というのであつて、そのことは榎並タネから内海邦市が聴き取り被告人に教えてくれたというのである。榎並タネの第一次再審請求事件における証言や(録音)速記録中には右に触れる供述がないので、現在において同女にその真偽を確かめることができないけれども、一旦榎並夫婦との共犯を自供しながらそれが虚偽と判明した岡崎太四郎としては、当初の虚偽の自白の内容となつている犯行の筋道をなるべく修正しないで、精々共犯者を取りかえて、その理由をとりつくろう程度にとどめようとしたのではないかと疑う余地もあるだろう。若し、榎並夫婦との共同犯行の態様に関する岡崎太四郎の供述内容が被告人の述べるとおりであつたとすれば、そが、被告人との共同犯行の態様と全く軌を一にしていることで明らかであつて、この点から見ても、岡崎太四郎の供述を全面的に信頼するのは危険であるというべきである。

5  大田嘉助方での兇行の状況に関する供述も極めて漠然とした皮相な内容であることは否み難い。下関地方気象台の「天候、月令等についての回答」によると、当夜は快晴ではあるが月令二七・三であり、時刻は深夜であつたから、かなり暗かつたことはまちがいなく、かつ嘉助宅屋内の採光状況がどのようであつたか不明であるものの、前記三の岡崎太四郎の供述によれば、同人は他の関係では現場の状況をかなり詳しく供述しており、また十分見分できたであろうとみられなくもないのに、被告人の行動についての供述には特に右のような漠然、皮相の印象を拭い難く、このこことは結局同人が被告人と行を共にしていなかつたからではないのかと推測を生むこととなる。太四郎は「加藤ガ嘉助ニ斬付ケタルヤ否ヤ知ラザル旨」供述したとあるほか、切りつけるのを見たという供述は全く存しないが、医師重村正彬作成の検案書によると、嘉助は全身に大小二三個の創傷があるとされていて、相当多数回の攻撃が加えられたことは明白であるのに、「嘉助ハ大分ヤリツケラレテ弱リ居リタルヲ以テ」と述べながら、被告人が切りつけた行為を一度も見ていないというなどは全く理解に苦しむところである。蚊帳の吊手を引き落したことや、所携の手拭で嘉助の口の辺を押えたことは自己の加功行為として述べているが、これらも自分が全く加担していないわけではないとして、精々右の程度にとどまることを強調する供述ではなろうか、との疑念を生むところでもある。岡崎太四郎は「加藤ガ嘉助ニ足ヲ捉ヘラレタ」というけれども、同人は嘉助が目を覚ましたようなので直ちに床上に「飛上リ、上リタル処ニ在ル」蚊帳の「吊手ヲ除ケテ左へ廻リ三方ノ吊手ヲ引落シ」たというのであるから、蚊帳の周囲を一巡しているわけであつて、そうだとすれば「蚊帳ノ外ヨリ蚊帳ノ内ヲ探リ居タ」被告人よりは、むしろ太四郎の方が足を捕えられる可能性が多かつたのではなかろうか、そのような事態を想定する方が自然のようにも考えられないでもない。

6  犯行の用に供された兇器に関する岡崎太四郎の供述にも首肯し難いものがある。同人の供述によると、右兇器は、押切(藁切刀)であつて、おそらく被告人が自宅から持ち出して来たのであろうというのである。右兇器が「押切」であるのか「藁切」であるのか、さらには「押切(藁切刀)」であるのか、原各判決書中でもその名称は区々であるのみならず、別紙予審終結決定においては「藁切リ押切刀」とも表示されており、その性能・形状等がどのようなものであつたか判断に苦しむところであるが、これらについては項を改めて検討するここととし、ここでは次のことを指摘するにとどめる。すなわち、わら切りというも押切というも、それが大方の農家で堆肥、牛馬の飼料等のためわらや草を切るのに使用される農具の一つであることは疑いなく、その用途に照らし、相当の重量を有し、長さもかなり長く、刃幅も決して細いものとは考えにくいものであるが、そのような兇器を手にして深夜とはいえ季節は夏であり、しかも人家の点在する県道をとおり、本件現場に赴いたというのは、いささか不自然の感を免れないものがある。さらには、被告人が携行するにしても、他に兇器として持ち出しうるもの、例えば斧、鉈、鎌をはじめ庖丁類であつても兇器として十分用に堪えうるのみならず、むしろ携行に容易で人目にもつきにくいと思われるのに、被告人はそのような兇器を選択しなかつたことになるが、この点も理解に苦しむところである。

7  以上いささか微細に岡崎太四郎の供述の信用性を検討して来た。既に前出第三において触れたように、原各判決書において岡崎太四郎の供述の信用性を保障する証拠を特に掲げているのは、原第一審判決のみであり、かつその証拠はもつぱら同人が被告人と出合う以前の当夜の行動に関する証拠であつて、その後の両名の行動に関しては岡崎太四郎の供述しか存しないのであるが、その供述内容が右指摘したような疑問点あるいは危険性を包蔵していると判断される以上、その信用性については慎重を期すべきが当然であり、少なくともこれに全幅の信頼を措くことができないと結論せざるをえない。そこで、進んで兇器の証拠、創傷、被告人の着衣、人血証明等、原各判決から窺える他の証拠について検討を加えることとする。

第五兇器と創傷

一兇器について岡崎太四郎は次のように述べている。原第二審判決挙示の第一回予審調書では、太四郎は被告人と出会い、「ヤツテヤローデハナイカ」と話し合つたのち「加藤ハ用意シ来ルトテ東方ニ行キタルカ自宅ニ行キシモト思フ十分許リ後出来リ」、嘉助方に向う途中万一捕えられるような場合には「加藤ハ左様ノ場合ニハヤツツケル外ハナイトテ手ニセル押切(藁切刀)ヲ示シタリ」と述べ、原第一審判決挙示の右調書でも「加藤ハ一寸待テト云ヒテ東方ニ行キ約十分計リシテ帰へ来リタルカ其時同人ハ押切ヲ持チ」出しており、途中においても「手ニセシ押切ヲ示シナガラ」「左様ナ場合ニハヤツツケル外ハナイト申シ」た旨述べており、さらに同判決挙示の太四郎の第一審公判廷の供述では「金ハ取レズ逃ゲラレヌトキハ之デ遣ツテ遣ルト申シ藁切ヲ示シタリ」と述べている。これらの各供述からすれば、岡崎太四郎は田中源吾宅前で被告人と出会い、本件犯行等を話し合つた後、被告人は一旦帰宅し、おそらく自宅から本件兇器の「押切、藁切(刀)」を持ち出して来て本件殺害に至つたものであると述べているものとみざるをえず、その兇器としては押切、藁切(刀)であることは明確であると判断され、他の類似品ではないかとの疑をさしはさむ余地は存しない。ただ、右の押切といい藁切(刀)というのが、岡崎太四郎の述べるところでは、単なる名称の差にすぎないのか、ないしは調書作成者の括孤書等による用語の説明であるのか判然しないけれども、しかしこの点は以下の判断においてはさほどに意味はないように思われる。

右岡崎太四郎の供述によつて、本件当時被告人方が捜索され、右供述に添うと認められる押切、藁切(刀)の押収が当然なされたであろうことは容易に推測されるところであり、また、押収後それが本件犯行に際しての兇器として適合するか否かについて十分な検討が加えられたに違いないと判断される。このことは本件当時の大正五年一月二五日付関門日日新聞夕刊、同日付防長新聞、同年一月二六日付馬関毎日新聞によると、同年一月二四日本件第一審第五回公判が開かれて、死体の検案をした重村医師に対する証人調が行なわれた旨報道されており、かつ、右関門日日新聞夕刊によると、その際西原裁判長は右証人に対し「証拠物件として押収したる藁切りの押切刀を示した」とあり、また、大正五年二月八日付防長新関によると、同月七日開かれた右第六回公判において、検事はその論告の中で「兇器押切庖丁の血瘍は兇行後之れを洗滌したることは用意周到なる新一の成し得べき筈なり」と述べた旨の記載があることからも肯けることである。そして被告人自身も、第一次再審請求の際提出した書面及びその際の(録音)速記録中において、また、当審での被告人尋問調書中において、原第一審裁判長が押収の藁切刀を示して重村医師に兇器についての意見を求めたこと、当時被告人は右藁切刀につき血瘍付着の有無の鑑定を求めたことと、右藁切刀は自分の家にあつたのを押収して持つて行つたものであること、などを述べているのである。右のように考察してくると、少くとも岡崎太四郎が述べる「押切、藁切(刀)」なるものは、当時同供述によつて被告人宅から押収され、原第一審公判廷において証拠として取調べられ、重村医師にこれを示してその意見を求めたことはほぼまちがいないものと思われる。しか右「押切、藁切(刀)」が果して大田嘉助殺害に使用された物そのものであつたかについては、なお幾分の疑念が存したのではないかと考えられる節がある。このことは、被告人が第一次再審請求において、重村医師は原第一審公判において「全身一一ケ所の傷あるも致命傷は左肋骨間を肺に達する刺傷のため反射性心臓麻痺を起して死亡したものである」と証言し、裁判長から「この刃物であの傷が加えられるか」と藁切刀を示して質問されたのに対し「重村医師はしばらく頭をかしげて居りましたが、藁切刀ではないと思います、日本刀の様な物で突いた創であります」と証言した旨述べており、当審での被告人尋問調書においても同旨の供述をしているほか、大正四年一二月一四日付防長新聞、同日付関門日日新聞夕刊に、第一審第二回公判において弁護人より「兇器の鑑定」が申請されたこと、同五年一月二五日付防長新聞に、同第五回公判において弁護人より「兇器藁切包丁の再鑑定」が申請されたことがそれぞれ報道されていることから推知しうる原第一審の公判審理の状況、さらには、原上告審判決書にある「被告人ハ本件犯罪ヲ犯シタル者ニ非サルコトヲ叙述シ押収物ノ鑑定其他ノ証拠調ヲ再施センコトヲ乞フ」点に被告人の上告趣意があつたこと等から十分窺えるところである。もつとも、前記大正五年一月二五日付関門日日新聞夕刊によると、押収の「藁切りの押切刀」を示された重村医師は「斯かる刃物にて蒙らしめたる傷所なりと明答したり」と記載されているけれども、もし同医師において右記事のような明確な証言をしたとすれば、原第一審判決書中にその要旨が摘示されたであろうと判断されるが、その摘示がない点から見ると、そのような証言はなかつたか、もしくは証言があつたが他の証拠などと対比して信用し難いものと判断したからであろうと推測して誤りないであろう。

右のように検討してくると、岡崎太四郎の供述によつて被告人宅から兇器として「押切、藁切(刀)」が押収され、その証拠調が公判廷において施行され、かつ、それが本件兇器であるか否かにつき検討、吟味されたことは疑う余地がないと判断されるのであるが、その結果として下された原第一審、第二審判決書の認定事実中においては、何故か「押切、藁切(刀)」という具体的表示は全く姿を消し、第一審判決書にあつては「鋭利ナル刃物」、第二審判決書では「鋭利ナル刃器」という極めて抽象的な漠然とした表示に終つている。このことは何を意味するのか。あるいは重村医師の検案書中にある「以上ノ創傷ハ何レモ柄ヲ把持シテ強力ヲ加ヘ得ル鋭利ナル刃物ニ因リ生ジタル切創ニシテ」とか「兇器ハ柄ヲ把握シテ強力ヲ加ヘ得ル鋭利ナル種類ノモノニシテ可ナリ重キ重量ヲ有スルモノナルヘシ」とあるのに符節を合わせて右のような抽象的な表示をしたのではないか、と考えられないでもない。しかしそれよりはむしろ原第一審、第二審裁判所が、兇器として押収されている当該「押切、藁切(刀)」が、本件犯行に使用された兇器であるかにつき一沫の疑念を残しつつも、重村医師の検案書の記載にある「可ナリ重キ重量ヲ有スル」「鋭利ナル刃物」であることは動かしがたい事実であるとして、その長さ、幅、重量、形状等において押切、わら切りと同ようであるかもしくは極めて類似した刃物が兇器として用いられたであろうとの認識のもとに、前記のような表示をことさら意識的に用い、あえて兇器の特定を避けたとは考えられないであろうか。確定記録が既に廃棄されている現在において、原裁判所の判断を右のように忖度することは不遜であるといえるかもしれない。しかし、ここでは、原裁判所の判断がどうであつたかとか、それが誤りであるとかを言うのではなく、岡崎太四郎の供述によつて押収された兇器なるものに、右のような疑念が存する余地があつたと認められることを指摘し、そのことがひいては同人の供述の信用性の判断に幾分か影響するものであることを明らかにすれば足りるのであり、かつそれにとどまるのである。

二原第一審判決書に掲げられている重村医師の検案書によると、被害者大田嘉助の受けた創傷は全部で二三個あり、その内容は

「(イ)頭部ニ九個ノ創傷アリ、内一個ハ皮下ニ、二個ハ骨膜ニ、六個ハ骨質ニ達スルノ深サアリ

(ロ)顔面ニ深サ皮下ニ達スル創傷アリ

(ハ)右(原第二審判決書では「左」)肩胛及上膊部前面ニ三個、後面ニ二個ノ創傷アリ、深サ或ハ皮下ニ、或ハ筋質中ニ、或ハ骨質ニ達ス

(ニ)左手部ニ三個ノ創傷アリ深サ骨質ニ達ス

(ホ)右前膊及手部ニ二個ノ創傷アリ

(ヘ)前胸部ニ一個ノ創傷アリ

(ト)左胸部後面ニ大創傷一個アリ、第五肋骨体ヲ長経ニ沿フテ切リ且ツ又肩胛骨下角ノ一部ヲ切除シ深ク肺臓ニ達ス

(チ)右(原第二審判決書では「左」)臀部ニ一個ノ創傷アリテ深サ皮下ニ達ス」

とされている。これらは、嘉助の死体に存したすべての創傷を摘記したと認められ、しかもそれらは「皆切創」であるとされているのである。

これらの創傷を前提として、その成傷用器がはたして岡崎太四郎の供述にある「押切、藁切(刀)」の類とみられるかどうかについて検討することとなるが、現段階においては、原裁判所が押収した「押切、藁切(刀)」がどのようなものであつたかを確定し難いところ、被告人はその形状につきその提出にかかるわら切り(当庁昭和五一年押第六号の九、木製の柄のついた刃部のみ、全長約六〇センチメートル、刃渡り約四〇センチメートル、刃幅九ないし一五センチメートル、全重量約一、五〇〇グラム、刃部はゆるやかな丸味を帯びた長方形型)に類似するものであるというけれども、右わら切りを前提として判断を進めることも適当でない。元来押切、わら切りはいずれにしても大方の農家でわらや草を切るのに使用される農具であり、その用途より考えると、相当の重量と刃長を有し、かつ刃幅も決して細いものとは考えにくいものであること既に述べたとおりであつて、その通常の用語の意味及び当裁判所に顕著な知識によると、押切は刃部を上に向けて台上に固定し、わら等をのせて上から押しつけて切る類のものであるのに対し、わら切りは刃部を下に向け、受け台との間にわら等をはさんで押しつけて切る類のものと理解されるが、岡崎太四郎の供述するように被告人が自宅に帰り、ほどなく持ち出して来て携行して行つたとするならば、木製の握り柄があつて取りはずしの容易な「藁切」の方が、兇器として使用するには適当であると判断され、刃部に握りがなくその両端が台に固定されているため、取りはずすことが容易でなく携行使用するにも不便な「押切」を兇器として使用したとはいささか考えにくいことである。ところで、当裁判所に押収されたわら切り、押切(前回押号の一ないし三、六ないし一四)は、その刃部の長さ、幅、形状、また全体の重量等において種々雑多であるが、右押収品を前提にし、かつ、その使用目的に照らして判断すると、刃部が鋭利であること、刃渡りも相当の長さを有し、刃幅も決して細いものではなく、刃背部にもかなりの厚みがあるであろうことは十分推断できるのであつて、勢いその全重量は各種庖丁類の比ではなく、まず少くとも六〇〇グラム程度を下ることはないとみてよいであろう。このような形状、重量を有する藁切によつて、前記のような嘉助の各創傷が成起されたものと考えられるであろうか。この点につき当裁判所が取調べた上野正吉作成の昭和五〇年一一月三日付鑑定書、同人に対する証人尋問調書、小林宏志作成の意見書、鑑定書、同人に対する証人尋問調書によると、少なからぬ疑問の生ずることは否定し難いように思われる。右両鑑定はいずれも前記被告人提出のわら切り(前同押号の九)を資料としてなされたものであり、右わら切りが押収されている他のわら切りに比して比較的重量が重いことを考慮すると、右各証拠に金面的に依存することは慎しむべきであろうが、少なくともその趣旨とするところは傾聴に値し、説得力に富むものがあるように思われる。

すなわち、上野正吉は右鑑定書において、「被害者大田嘉助の死体に存する創傷は匕首、小刀の類によつて作成されたものと考えられ」「本件兇器は、一、二審判決に証拠として引用されている押切の如き刃器ではないと考えられる」と結論され、その根拠として前記重村医師作成の検案書にある(イ)頭部の創傷と、(ト)左胸部後面の大創傷に注目すべきであるとして大略次のようにいう。「本件では頭部に九創もの打撃が加えられてあるのに、そのうちの一つとして頭部を深く割截し骨の間から脳漿を流出させているというものを見ない、いやしくも本件が自傷の事件ではなく、他人による加害行為によつたものとすれば、これはそれだけでその成傷器が押切でないことを示すものである。本件の如き押切でなくても普通家庭にある小形の斧や鉈の類であつてもこれが打ちおろすように使用される兇器であるところからこれらも亦本件の兇器としては適わしくないものである。押切の如き重量のある刃器による頭部割截による作用で、見逃すことのできないもう一つの事象は、そのもつ重量から来る脳への波及力である。これはその殆どの場合その当然の結果として脳振とう作用による意識消失が即座に発来する。従つてその打撃を受けた直後から対抗行為をとる能力が失われ、本件の場合にみる如く加撃を加えても尚加害者の足をつかみつづけ(原判決中の岡崎太四郎の供述参照)、これによつて被害者が加害者ともども屋外にひきずり出されるということは起こり得ないものである。従つて、本件兇器は頭部に打撃を加えても、脳振とうを発来せしめぬだけの軽量さであり、しかも短時間に身体に二三創も加え得るほどにハンデイなものであると考えられ、これに適当なのは匕首、小刀の類で、簡単に懐に収め得る種類のものである。如何に鋭利な刃器でも日本刀の如きものではこれにより割截は上に述べた押切の場合と同じ効果を発するし、また本件押切よりやや小形の斧、鉈の類であつても、これによる頭部打撃は押切や日本刀の場合に準じた効率を示すものである。」そして、左胸部後面の大創傷についても、「傷はただこの第五肋骨一本に限られ、しかも『長経に沿うて』とある記載は匕首、小刀の類が肋骨の経過に沿うて刺入されていることを思わしめるもので、押切の類は勿論、斧や鉈などによる打ち下ろし的加撃ではまず出来難いものである。この同じ動作が『肩甲骨の一部を切除』していることもいよいよ上記の推定の確からしさを裏付けるものである。その際の加害者、被害者相互の体勢について考えてみれば、これはおそらくは加害者が被害者の体左側から、あるいは後方から中心に向つて刺入する動作によつて形成されたものとみられる」とされるのであり、右の点は同人に対する証人尋問調書で一層明確に述べられているのである。もつとも、右鑑定書においては、大田嘉助の創傷は、「刺創、切創、刺切創の類である」と判断し、重村医師の「皆切創ニシテ」という認定と異つているけれども、その差異にとらわれて右鑑定書を不合理であると断ずるのは相当でないと思われる。むしろ上野正吉作成の右鑑定書、同人の証人尋問調書について留意すべきことは、(一)大田嘉助の頭部に九個もの創傷があるのにかかわらず、その内一つとして頭部を割截し脳内損傷にまで至つているものがなく、受傷の過程で脳振とうを惹起したとみられる形跡もうかがえないが、これはわら切りのごとき重量のある刃器による成傷と考えるにはなはだ不合理であること、(二)左胸部後面の大創傷も、肋骨体の傷は第五肋骨一本に限られていて隣接肋骨への損害を伴つておらず、しかも「長経ニ沿フテ」切りさらに肩胛骨下角の一部を「切除シ」て「深ク肺臓」にまで達しているとされている点、兇器としてはむしろ匕首、小刀類による創傷とみるのが合理的であることの二点にあり、同鑑定人が言わんとするところはここにあると理解すべきものである。同人作成の昭和五一年六月一九日付鑑定書第三節、同年七月一七日付鑑定書一、の各記載意見も右の趣旨に合致しているものである。そして、右上野正吉の指摘する点は、当裁判所としても十分首肯することができ、押切、わら切り(刀)が兇器であるという岡崎太四郎の供述に重大な疑念を投げかけざるをえないものがある。

右に関連して小林宏志作成の意見書、鑑定書、同人に対する証人尋問調書の主意も、要するに被害者大田嘉助には二三個もの多くの創傷があり、しかもうち四個、多く見て五ないし七個もの切創は皮下に止まる浅いものであること、また頭部に九個もの傷があるというのに大きな致命傷が一つもない、ということからすると、本件兇器としては被告人提出のわら切りといつたものを考えるのは難しい、というにあたつて、それは上野正吉の指摘する前記(一)とほぼ同旨であると言つてよい。

右に対し、三上芳雄作成の昭和五一年三月二三日嘱託鑑定書では、その結論として「大田嘉助の死体に存する切創のうち、左胸部後面の切創は割創と認めるのが妥当であり、兇器は重量があり、かつ大にして刃部の先端をふくめて鋭利な兇器に由来するものと思考され、」「其の他の多数の切創も該兇器の刃部の触接等によつて生じ得るものと思考する」として、鑑定資料として提示されたわら切り三丁(前同押号の六、七、八、重量はそれぞれ七五五グラム、九四〇グラム、一、〇三五グラム)につき、これらは「いずれも刃部が尖鋭にして菲薄、大かつ重量がある。同刃物により大田嘉助の死体における『左胸後面の深さ肺臓に達する割創』の形成は勿論、その他の切創ならびに現場の刀痕も同刃物の刃部の触接等によつて形成は可能と思考する」とされている。右の「触接等」とある点につき、三上芳雄に対する証人尋問調書において、同人は「切ろうと思つて取つ組み合いをしているときに、刃器の先端が触れるというような意味である」と説明されるのであるが、そのような場合に創が生ずるのは自明であつて、頭部に九個もの兇器の「触接」がありながら、相当な打撃を伴つたと認められるかなりの創傷を惹起していないことの説明は、その証人尋問においても十分明確にはされておらず、結局前記上野正吉の指摘した(一)(二)の点につき納得しうる説明はえられず、兇器が果してわら切りであるかについての疑念を解消するには至らなかつた。

松倉豊治作成の昭和五一年四月二二日付鑑定書についてもほぼ右と同ようである。それによれば、「本件被害者大田嘉助の死体にみられた創傷中、その左胸部後面の大創傷は、かなりの重量のある、かつ刃部の鋭薄なる大型の刃物を用器とし、これを強力を以て打ちおろすような方法で同部に作用させることにより生じたとするのが妥当であり、その他の身体各部の創傷も同様な刃物によつてこれを生ぜしめることができると認められる。」「一、二審判決に記載する犯行の状況は」、鑑定資料として提示されたわら切り三丁(前同押号の一一、一二、一三、重量はそれぞれ五五二グラム、六五二グラム、九六五グラム)のごとき「刃物によるものとして可能である。特に右のうち六五二グラム程度のものが適切であると認められる」と結論しておられる。そして前記上野正吉の指摘した(一)の点について、「頭部の九個の切創が、わら切りを兇器と考えても別に矛盾しない」し、「本件の場合に、これが頭に作用していると思うのに、中に入つていないのは何故かといえば、」「この刃物がここへ接触するときの接触の仕方が、頭蓋内に入るほどのそういう当り方でなかつたから、結果的にそうなつただけである」と説明されたが、本件で最も問題であると思われる頭部の創傷につき、わら切りによつて発起可能であることは十分理解できるとしても、そのようにみることが果して合理的であるといえるかについては、首肯できる説明をうることができたとは言い難いものがある。結局、右鑑定の結論を採用することにはちゆうちよせざるをえないのであつて、前記三上芳雄の場合と同よう岡崎太四郎の供述に存する兇器についての疑念を解消するには至らないと言うほかはない。

第六被告人の着衣と人血痕

一本件犯行を被告人が犯したものであるならば、被告人の当夜の着衣に相当量の人血が付着したであろうことは、原第一審、第二審各判決が認定した罪となるべき事実、および岡崎太四郎の供述から容易に推測できることである。すなわち原第一審判決は「被告両名ハ右謀議ニ基キ愈嘉助ヲ殺害セント決意シ被告新一ハ前記兇器(注、鋭利ナル刃物)ヲ以テ数回嘉助ニ斬付ケ互ニ格闘シツツ屋外ニ出デテ同人ヲ組敷クヤ被告太四郎ハ携ヘ居リタル手拭ヲ嘉助ノ口中ニ押込ミテ其発声ヲ妨ゲ被告新一ハ尚同人ニ斬付ケ其頭部胸部肩胛部等ニ大小二十三個ノ創傷ヲ負ハシメ遂ニ同人ヲ殺害シタルモノナリ」と判示し、原第二審判決も全く同旨の殺害行為を認定しており、この点に関する岡崎太四郎の供述は、既に第四、三に記したとおり、ほぼ右判示に沿う内容のものである。そして、これらによれば、被告人が大田嘉助に切りつけ互に格闘しつつ両者は屋外に出て被告人が嘉助を組み敷いたこと、その間嘉助は被告人のために大分やつつけられていたらしいことが明らかであり、しかも、大田嘉助は第五、二に記した大小二三個の創傷を負つていたからである。

では、当夜の被告人の着衣はどうであつたか。この点について岡崎太四郎の供述を抜萃すると次のとおりである。

1  衣類モ腰切レ様ノ物ニテ襦袢ヨリ少シク長キモノト着代ヘ居リタリ(前記第四、三、2)

2  当夜自分ハ證第十号ノ単衣ヲ着用シ居リ又加藤ガ自宅ニ帰リテ着代ヘ来リタル腰切ハ自分ノ当夜ノ着衣ヨリ少シク白ク縞ノ無キモノノ様ニ思ハレ縞ノ襦袢ガ仕事着ノ為メ古ク白ク剥ゲタモノトモ見エ又夏襦袢ノ古ビタルモノトモ見エ袖ガ筒袖ナリシコトハ確カニ覚ヘ居ルガ證第九号ノ品ト思フ(前記第四、三、3)

3  被告人ガ「押収第九号襯衣ヲ着セルヲ見テ七月十日ノ夜嘉助方ニ同行シタル時ノ新一ノ風体ニ此有様ハ能ク似テ居レル旨」(前記第四、三、4)

そして、被告人は右証第九号の衣類につき、

4  證第九号ノ筒袖襦袢ハ自分ノ父弥太郎ノ仕事着ニ相違ナキ旨(原第一審公判廷での供述)

5  第九号證ノ襯衣ハ父ノ仕事着ナリ(原第二審公判廷での供述)

と供述している。

さらに、右証第九号の衣類に人血が付着していたか否かにつき

6  鑑定人安西茂太郎ノ鑑定書ニ證第九号筒袖ノ表面及證第十号筒袖木綿単衣ノ表面ニ附着セル各斑点ハ何レモ血液斑ニシテ人血ナル旨ノ記載

7  証人安西茂太郎は原第一審公判廷において、「證第九号」「證第十号」の右各斑点につき「動脈ノ切断ニヨリ迸出セル血液ノ附着セルモノト思フ旨供述シタリ」

と、証拠が示されており、右のような証拠を掲げて原第一審、第二審(ただし7は挙示していない)は被告人の当夜の着衣は、押収されている証第九号の衣類であり、それは被告人の父の仕事着であると認定し、その旨判示しているのである。

右の被告人の当夜の着衣について、被告人は、岡崎太四郎の供述には変遷があり、父の仕事着を押収して来た警察の誘導のままに供述をかえた疑いがある、として大要次のように述べている。

「岡崎は私と出会つたと言うが、私はその晩全く会つていないので警察で対決したとき、『会つたとき加藤はどんな着衣であつたか』と反問したら『白い浴衣だつた』と答えた。私は浴衣ではなく、久留米かすりのひとえ物にちりめんの帯だつた。田耕村の河野喜太郎方を警察が調べたら、私の述べたとおりであることが証明された。岡崎はその後、『加藤は帰りの衣類を着替えて行きました』と供述を変更し、警察から『これではないか』と父の仕事着を示されると、『それでした』と初めの供述を変えたのである」という。

はたして被告人が述べているとおりであるかどうか、もとより現在ではこれを明らかにすることができないけれども、当時において捜査当局が被告人の着衣に血痕が付着している疑いがあると判断して、被告人の自宅を捜索し、被告人の衣類を含む家人の衣類につき、人血痕らしいものが付着していないかどうかを調べたことはまちがいないと思われ、その結果押収された被告人の父の仕事着を、岡崎太四郎に示して被告人の当夜の着衣ではないかとその確認を求め、これに対し太四郎が、あいまいながらも肯定する供述をしたであろうことは、ほぼまちがいないと推認することができる。また、当夜被告人が出向いた先である河野喜太郎につき、被告人の当夜の着衣がどうであつたかを裏付けのため捜査したであろうことも、恐らくは被告人の言うとおりであろう。しかし、岡崎太四郎が、被告人の着衣に関する当初の供述を、その後変更したかどうかについては軽々に推断することはできない。ただ、大正四年一二月一三日の原第一審第二回公判の模様を報ずる同月一四日付関門日日新聞夕刊記事中には、被告人が、「太四郎が検事廷にて陳述せし着衣につき大に異れり、初めは縞の着物と云ひ、次で絣と云ひ、予審廷にては何れなるかを知らず多分絣の筒袖ならんと曖昧なる言を吐けり、此の点よりも自己に非ざることは確実なり、其の他太四郎は着物を着換へずと云ひ予審廷に於ては着物を着換へ古びたるシヤツと押切刀を所持せりと云ひ全く予審判事の謂ふが儘に言を左右に附せり」と陳述したとあつて、岡崎太四郎が被告人の着衣につき供述を変えて行つたのではないかと疑わせるものがあることは指摘されてよい。

二被告人が父の仕事着であることを認め、かつ原第一審、第二審判決において被告人の兇行当夜の着衣であると認定されている「證第九号筒袖衣服」が押収されたのはいつか、という点は、後記人血付着の有無の鑑定結果を検討するに当つて問題となるので、ここで簡単に触れておくと、原第二審判決書の記載によれば、七月一四日被告人は林ミツから鯛二尾を買つたことがある模様であること、七月一七、八日頃被告人は西市警察分署に連行されたことがそれぞれ窺えるので、被告人が逮捕されるに至つたのは少くとも右七月一七、八日以降ではないかと推認される。そして被告人自身は第一次再審請求以来、逮捕されたのは七月二五日であり、「證第九号筒袖衣服」が押収されたのはその後であると一貫して供述している。

しかし、右被告人の供述だけでは、なお被告人の逮捕および筒袖衣服の押収の日時を認定することはできないが、なお大正四年七月二七日付、同月二八日付関門日日新聞各夕刊には、岡崎太四郎が逮捕されたのは七月二二日であり、同人の自白によつて被告人は七月二六日逮捕された旨の記事があること、大正四年七月二七日付馬関毎日新聞、同年七月二八日付防長新聞には岡崎太四郎、被告人の両名が七月二二日検挙された旨の記事があること、さらに、大正五年二月九日付同新聞に、原第一審の最終公判において被告人が、証拠の衣類は「初めより証拠品として押収されたるに非ずして太四郎の自白により而して後家宅捜索の結果押収されたるものなれば何等有力な証拠とならず」と述べた旨の記事があることなどからすると、結局岡崎太四郎が逮捕されたのは七月二二日であろうと推認され、同人の自白によつて被告人が共犯者とされるに至つたものであるから、「證第九号筒袖衣服」が押収されたのは、いかに早くみても右太四郎逮捕の七月二二日以前でないことは明らかであると言つて誤りはないであろう。

ただ、前記のように被告人は七月一七、八日ごろ西市警察分署に連行された事実があるなど、岡崎太四郎逮捕前に二、三度警察の任意取調べを受けていることが窺えるが、しかしその間に被告人の父の「筒袖衣服」までが押収され、その「表面ニ附着セル斑点」につき、安西茂太郎に鑑定を委嘱していたとまではまず考えられないところであるから、右の鑑定委嘱がなされたのは七月二二日以後であつたと判断されるのである。

三鑑定人安西茂太郎は、その鑑定書中において「證第九号筒袖衣服ノ表面ニ附着セル斑点ハ血液斑ニシテ人血」であると記載し、また原第一審公判廷において、右斑点につき「動脈ノ切断ニヨリ迸出セル血液ノ附着セルモノト思フ旨」証言していることは、前記一、6、7に指摘したとおりである。

そして、第一次再審請求事件における証人安西茂太郎尋問調書によると、同人は右鑑定の経緯と方法について概略次のように述べている。

「大正四年八月に下関市立高尾病院長を退職し、同年一〇月下旬に同市内で医院を開業したが、高尾病院を退職するまぎわのころ、検事局の嘱託医高田頼太郎が横一五センチメートル、縦一九センチメートル程度の大きさの血痕の附着した木綿の布片一つを持つて来て、「これは人血か動物の血液かをみてその結果を鑑定書として出してくれ』と頼まれたので、血瘍のついている所を鋏で切り取り、生理的食塩水にひたしておいて、血痕の食塩水にして顕徴鏡で血球が人間のと動物のと違うのでその結果を鑑定書に書いた。布片の血痕附着部分の一部を小指頭大に切りとり、食塩水を入れた直径一〇センチメートルくらいのシヤーレにつけて溶かし、それを顕微鏡で観察して人血と判定したのである。」

また、右事件参考記録にある右安西の(録音)速記録でも、ほぼ同様のことを述べていることが明らかである。

同人は、前記原第一審公判廷における証言について、そもそも自分は血痕鑑定につき山口地方裁判所に証人として出廷した事実はないし、また、衣服等に「附着セル斑点ハ動脈ノ切断ニヨリ迸出セル血液ノ附着セルモノト思フ」というような証言をしたことはなく、そのような判定は少くとも布片等に附着した血痕に関する限りできるはずがない、旨明確に否定していることも明らかで、この点いささか理解に苦しむところであり、被告人はこの点をとらえて原第一審法廷に出廷した証人安西茂太郎が替え玉であると主張するけれども、そのような事態は我々の想像を絶することであり、到底ありうべからざることと思われるのであつて、むしろ証言時において八七歳であつた安西茂太郎が記憶を喪失したためであろうと言うほかはない。

(右の点につき、大正四年一二月二八日付防長新聞によると、「医師安西茂太郎を召喚取調ぶる事」とした旨の記事があり、同五年一月二五日付同新聞には「召喚に応ぜざる医師安西茂太郎氏を喚問すべく請求」との記事があり、ついで、同年二月八日付同新聞、同月九日付馬関毎日新聞には、第六回公判に右安西医師が出頭して証言した旨の記事があることから見れば、召喚を受けた同医師はもとより、訴訟関係人において替え玉証人を準備するようなことはまず考えられないと言つてよい。)

それはともかく、同人の証言、速記録によると、安西の実施した鑑定方法は、ほぼ、血痕と思われる斑点の附着した布片の一部をはさみで切り取つてこれをシヤーレに入れた生理的食塩水につけ、血球様のものを溶かし出し、これを載物ガラス板上にとり顕微鏡で検査する方法によつて観察し、その溶出液中に血球の存在を認め、かつその形状、大きさ等から「人血」と判定したものとみられるのであつて、右以外の方法を別途あるいは並行して試みたことを窺わせるような供述は全く存しない。

四ところで、小林宏志作成の鑑定書、上野正吉作成の昭和五〇年一一月三日付鑑定書、同五一年六月一九日付鑑定書、同年七月六日付回答書、同年七月一七日付鑑定書、同五二年四月八日付鑑定書、三上芳雄作成の嘱託鑑定書、意見書、松倉豊治作成の昭和五一年四月一日付回答書、同月二二日付鑑定書、同年五月一三日付回答書、同年七月一五日付鑑定書、証人上野正吉、同小林宏志、同三上芳雄各尋問調書、証人松倉豊治の当公判廷における供述を総合して検討すると、

1  大正四年の安西茂太郎の本件鑑定当時、衣類等に付着した人血を疑わせる斑点につき、それがはたして「血痕」か否か、「血痕」であれば「人血」か否かの判別法としては、血球観察法(赤血球証明法)というのがあり、その方法は、右斑痕を切り取りあるいは削り取つてこれを載物ガラスの上に乗せ、これに生理的食塩水を加えて若干の時間をおき、もしこれが血痕であれば赤血球が溶出、分離するので、これを顕微鏡下で観察して、まず、右斑痕が人を含むなんらかの動物の血液による「血痕」であることを明らかにし、つぎにその赤血球が円形で無核であることを確かめて人を含む哺乳動物のものであることを確定し、さらに赤血球の大きさ(直径)は、哺乳動物中人のが最も大きいとされていることからこれを顕微鏡下で計測して「人血」か否かを鑑別するという方法であるとされていること、

2  そしてこの方法は、明治二三年発刊にかかる片山国嘉著の法医学提綱上巻をはじめ、その後大正初期にかけての各種の法医学の文献にはほとんど記述されていて、単に法医学専門家のみならず、多小でも法医学に興味をもち鑑定等に従事しようとするものであれば、地方在住の医師程度であつても少くとも右血球観察法の存在と方法についてはかなり周知されていたものであるとみられること、

3  しかし、右の血球観察法は、元来血液が衣類等に付着すると速やかに乾固し血球は萎縮・変形して原形を失うものであるため、血球膨化のための各種の膨脹液を用いても右血球を用いても右血球を原形に復させることはまず不可能であるのみならず、哺乳動物相互間の血球の大きさの差異も微少不同であることから、人以外の哺乳動物の血球と人の血球とを判別することはきわめて難事であつて、大正四年の本件当事右血球観察法が「血痕」かどうかの実性検査の一方法としてならばともかく、「人血」かどうかの判別法としては、少くとも法医学専門家の間では、ほとんど信用できない方法と評価されていたこと、

4  当時の「人血」かどうかの判別法としては別にウーレンフート氏法(生物学的検査法)があり、これが人血鑑別のための唯一の方法であつたが、この方法をとる場合には家兎を利用して作成される沈降素血清(人血清に対する抗体)が必要であるところ、その作成にはかなりの日時と技術が要求されるところから、東京大学法医学教室等きわめて特殊・専門的な研究機関などにおいてのみ、かつ右抗血清の製造に多大の日時を要して「人血」鑑定に利用されることがあつても、それ以外にあつては、当時右ウーレンフート氏法を用いることはまず絶対に不可能であつたとみられ、安西茂太郎医師が右ウーレンフート氏法によつて「人血」鑑定をしたとはおおよそ考えられないことなどの事実が認められる。

五右の各事実と、前出安西茂太郎証人尋問調書及び速記録に現われた同人の鑑定方法に関する明確な断言からすると、同人は「血球観察法」のみによつて「人血」鑑別を行なつたものと断じて誤りはないと思料されるが、そうだとするとその結論の信用性が皆無に等しいことは既述によつて自ら明らかであつて、安西茂太郎作成の鑑定書中にある「證第九号筒袖衣服ノ表面ニ附着セル斑点ハ」「人血ナリ」との結論に信を措くことはできないと言わざるをえない。

六次に、安西茂太郎が鑑定書中で、問題の斑点が「血痕」であるとしている点について検討すると、「證第九号筒袖衣服」が押収されたとみられるのは、少くとも岡崎太四郎が逮捕された七月二二日以後であろうとみられること前記二のとおりであるから、右鑑定は本件犯行日後少くとも一一日以上は経過したのちであるとみざるをえないこととなるが、前掲四の各証拠によると、

1  安西茂太郎が行なつた前記「血球観察法」では、その血痕付着が極めて微量な場合には付着後数日以上を経過したものにあつては、まず血球らしきものの証明は不可能のように認められること、またかりに大量の血液が付着したものであつても衣服に付着した血痕は一週日も経過すれば生理的食塩水でそのなかの赤血球を浸出遊離させることは絶対に不可能であつて、これを顕微鏡に捉えうるはずがないと認められること、

2  血痕付着後、時日を経過すると、右斑痕の付着する衣類等の器物自体の付加物、異物、塵片等との紛れのため、それらと血球との判別が困難となり、結局は血球として識別することが不可能となるものであること、

3  大正四年当時、血球観察にあたり生理的食塩水のほかに、ホフマン・パチニ氏液、ウイルヒヨー氏液等の各種膨脹液を使用することが知られていたが、これらを使用しての他の類似形態物との鑑別能力を具えるには相応な経験、習練を要し、専門家でないと利用できないと認められること、かりに利用できたとしても付着後数日を経過すれば膨脹液を用いた液中に赤血液を遊出せしめて血球の存在を証明することは極めて困難もしくは不確実であること、

4  また、大正四年当時、なんらかの「血痕」であることを鑑定する方法としては、まず予備試験としてグアヤツク法、ベンチジン検査法等により右斑痕が血痕らしいという検査をし、次にこれにつき本試験(実性検査)として、血球観察法のほか血色素(ヘモグロビン)吸収線検査法、ヘミン結晶法、ヘモクロモーゲン結晶検査法等の検査を行なうことが知られていたが、そのうち実際の鑑定で多く用いられていたのは右予備試験としてのグアヤツク法、実性検査としてのヘミン結晶法であり、しかもこれらは血球観察法を用いる場合においても「血痕」鑑別に併用されていたようなことも窺えること、そして右検査法のうちヘミン結晶法は他の実性検査法に比してその方法が幾分容易であること、しかしなお技術的にはある程度の習熟を要するものがあり、安西茂太郎においてその技量を有していたとは速断し難いものがあること、

が認められる。

七右に認定した事実に加え、安西茂太郎の前記のような明確かつ断定的な供述内容、さらには同人がヘミン結晶法を実施しておれば、その事柄の性質上記憶しているのではかろうかと思われること、などを総合判断すると、結局同人は本件鑑定にあたり、「血球観察法」のほかにヘミン結晶法等他の実性検察法をも実施したとみるのはまず無理であると言う外はない。

そうだとすれば、本件の場合、問題の筒袖衣服付着の斑点は、もし犯行時のものとすれば、鑑定時まで既に少くとも一一日以上は経過しているわけで、安西茂太郎がその述べるような方法によつて顕微鏡下に血球の存在を確認できるはずがなく、もし右血球を見い出したとしてもそれは血球様の形態物を血球と誤認したか、そうでなければ付着の斑点は犯行時のものでなく、その後の鑑定に近接したころのものではなかつたかとみるべき余地を残すこととなり、いずれにしても安西茂太郎作成の鑑定書中にある「證第九号筒袖衣服ノ表面ニ附着セル斑点ハ」「血痕」にして、という点も、その信用性に多大の疑念があることが明らかであると言える。

第七二、三の間接的証拠の検討

以上のとおり、被告人との共同犯行であるという岡崎太四郎の供述の信用性、兇器が同人の述べるわら切りであることの蓋然性、そして証第九号筒袖衣服を当夜被告人が着用していたかどうか、右衣服に付着していた斑点は人血痕であるとする鑑定結果の信用性等被告人と本件犯行とを結びつける各証拠について詳細に吟味、検討を加えて来たが、なお残された間接的情況証拠の二、三について念のため検討しておくこととする。

一被告人の所持金と金員強取との関係

前記第三において指摘したように、原第二審判決は、原第一審判決と異なり、被告人に関する犯行の動機についての警察官の各聴取書等を特に証拠として挙示している。

これらの証拠により窺われる事実の要旨は、被害者大田嘉助は当時かなりの所持金を紙幣で持つていた様子であること、被告人は本件発生の前々日から前日にかけて借金支払の督促を受けていたが金がないと言つて延期を求めて支払わず、また、犯行当夜は銅貨二〇銭を懐中にして賭博に行き、全部負けてしまつたのに、本件発生後に一円紙幣で、借金を支払つたり鯛を買つていること、被告人が西市警察分署に連行されるとき、七円一〇銭入りの薬箱を密かに父に預け、父は賭博でもうけた金と思い、表の間押入に隠しておいて翌朝納屋の天井のもみ入りのかますの中に移し隠した、ということであつて、これらの事実のうち、大田嘉助の所持金に関する点及び父が薬箱を隠匿した点を除いてその余は、被告人がほぼ認めて争わなかつたことである。

ところで、別紙予審終結決定によると、「被告新一は……胴巻内に在りたる金十餘円を奪取した」とされていたが、右金員奪取の点は原第一審判決では全く認定されておらず、かつその点に関する証拠も掲げられていないこと前出第三のとおりであるが、原第二審判決にあつては、金員奪取の事実を認定していないものの、被告人の手許が窮迫していたような状況や、犯行後かなりの所持金があつたことが認められる証拠を掲げているのあつて、これらの証拠は、被告人が部分的には自認している事実があることと相まつて、被告人を本件犯行に結びつける間接的情況証拠であるとは言えよう。けれども、本件は嘉助の所持金を窃取しようという話が発展して行つた犯行とされているが、しかし結局金員を物色したらしい形跡があるのみで、被告人らが現に金員を取得したとする事実は遂にどこにもなく、その点の証明はないままに終つていると見られるのであつて、その故に、原告判決も金員奪取の事実は認定しなかつたものと判断される。そうだとすると、原第二審判決が、大田嘉助がかなりの紙幣を持つていたこと、被告人が本件発生後紙幣を使用していること等の証拠を掲げ、また岡崎太四郎の第一回予審調書中の供述を記載するに当り、原第一審判決では記していない「嘉助ヲ殺害シ金員ヲ強奪シタルコトハ確ニ相違ナキ旨」の供述をことさら摘記して、証拠からはいかにも嘉助の金員を被告人が強奪し、これによつて借金の支払をしたかのように読み取れる説明をしているのは、金員奪取の事実を認定していないことと対比すると、判示事実と証拠説明との間に一貫性を欠いているように思われないでもない。しかし、原第二審判決も結論的には金員奪取事実は証明なしとしているのであるから、右のような証拠説明は、いわば被告人の犯行の動機を間接的に裏づけようとしたにとどまるものと理解せざるをえないが、被告人の所持金に関しては、第一次再審請求以来被告人が一貫して供述しているように、家業の農業収入のほか排水工事や木材運搬の請負賃などでかなりの収入があつた模様でもあり、また当時父母・妻子を抱えて一家の主柱であつたという被告人の家庭環境等をもあわせ考えると、本件発生前の借金及びその督促状況も、被告人をして本件犯行に至らしめるほどの動機となりうるかどうか多分に疑わしいと言わざるをえない。なお、大正五年二月八日付及び九日付各防長新聞によると、原第一審の論告にあたり、検事は被告人の所持金に関する供述が他の証拠と合致していない点を指摘した、とあり、弁護人も弁論において「只被告に不利益なる点は金銭の出納なり其の間検事の問に対し三度供述を変ぜり」と述べた、とあつて、所持金に関する被告人の供述を疑うべき証拠が確定記録中には存したであろことが窺われないでもない。しかし、右弁論によればさらに「該金の出所に就いては明らかに一件書類に散見せり」と述べたともあつて、被告人の供述をむげに排斥できない証拠も存した模様であり、これらの記事によつて、被告人には本件犯行に至る動機があつたとか、本件犯行を実行したとかを推認しえないことは当然である。

二被告人のアリバイ

原第一審判決書によると、被告人は原第一審公判廷において「自分ハ大正四年七月十日ノ夜ハ自宅ニテ風呂ニ入リタル後夕食ヲ済マシ田耕村河野喜太郎方ニ到リ同人夫婦等ト共ニ賭博ヲ為シタルモ失敗シタルヲ以テ同夜十時頃同家ヲ出デ帰宅シタリ」と供述しており、その後も第一次再審請求以来一貫して同旨の供述をしていて、本件当夜のアリバイを主張している。

ところが、大正五年二月八日付防長新聞によると、検事は論告において「十日は(註、賭博に)敗北午後十一時頃自宅に帰り妻フユノと同衾したりと云へど同女及び父弥太郎の証言に依れば約一時間半の後夜明けたりと陳述」した、と述べ、被告人にアリバイがないことを指摘した記載があり、又被告人自身もその昭和五一年四月八日付尋問書中において「父は山口の裁判所で証人に出たが、その際、犯行当夜は被告人が家におらず、被告人が帰宅してから一時間半ぐらいして夜が明けた、と証言したかどうか記憶にないが、あるいは誘導されて言うたかもしれん」と述べており、当時の捜査において被告人のアリバイが問題となり、被告人の出入り先や、家族について捜査されたであろうことは当然推測されることである。被告人自身も自分に嫌疑をかけられた最大の理由が、河野喜太郎方で賭博をした内田又市が、帰路一時間ほどを要して同人宅に午前四時ごろ帰宅したことから、まず内田又市が疑われ、被告人も内田と同席していたし賭博を中途で帰つているため内田と共犯ではないかと疑われるようになつた旨述べている。しかし、被告人のアリバイについては、岡崎太四郎の自供によつて被告人が逮捕される以前に、既に河野喜太郎方での賭客を中心に取調が進み、内田又市らと任意取調を受けていた間に当然問題になつていたものと見られ、その際は内田又市と同よう被告人も留置されることなく帰宅を許されているのであるから、その段階においては裏付けの結果一応アリバイが成立したのではなかろうかと考えられるのであつて、かりに、被告人の父が右論告にあるように証言したとしても、それを根拠に被告人にアリバイがないと断ずるにはちゆうちよせざるをえない。

三被告人の自認と見られる行動について

検察官は、被告人が服役するに当り広島監獄において規定の感想録をしたためているが、その中に、犯行を認める旨直筆していること、また、昭和五一年三月二四日付山口保護観察所長作成の「身上関係書の送付について(回答)」と題する書面添付の恩赦上申に関する昭和四四年一月二九日付身上関係書謄本には、被告人が犯罪を犯すに至つた経緯につき、「深い事情もなく悪友の為に」と自筆で記していること、を指摘して、被告人は本件犯行を認めている証左であると主張する。しかし、右のうち前者は、服役当初の入所感想という特殊状況下のものであり、大審院まで無実を争つていたし、また服役中にも無実を訴えて情願している事実があることに照らすと、到底右記載をもつて本件犯行を認めたものとみることはできない。後者についても同ようであつて、既に二度再審請求が棄却されたのち、三たび同請求をしているころの記載であり、身内のことや、生涯保護観察下におかれていることから逃れることを考えて、専ら恩赦の関係のためのみに記されたものとみられるからである。また、被告人が自認している証左の一つとして近藤二郎の検察官に対する供述調書を挙げるが、かりに右調書に記載されているような事実が存在したとしても、その際の被告人の言辞を目して本件犯行の自認というのは全く失当であり、たかだか脅迫のための言辞とみられるにとどまるものである。

第八結論

当裁判所は、確定記録の不存在という異常な条件下ではあつたが、幸いにも原各判決の詳細な理由説示に助けられ、以上のとおり検討を尽くした。しばしば触れたように、確定記録の廃棄されたことは、右検討に当つて大きな障害であつた。右記録中には被告人に有利な証拠も多く存したかもしれないが、現在これを明らかにすることはもはや不可能である。ただしかし、確定記録が存しないことの不利益を被告人に帰せしめることは許されることではない。のみならず、本件再審申立以来収集された証拠のみによつても叙上の諸点が明らかとなり、結論を下すに足りるものがある。すなわち、本件において被告人が有罪とされた大きな支柱である共犯者岡崎太四郎の供述については、その真実性、信用性につき疑問があることは否定できず、右自供による兇器の適合性が疑わしく、被告人の着衣とされている筒袖衣服に付着する斑点が人血痕であるとの鑑定結果も誤りであると評するほかないことは、既にそれぞれ詳細に述べたとおりである。もはや被告人が本件犯行を犯したと認むべき証拠はないと言わなければならない。

よつて、被告人に対する本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法施行法第二条、旧刑事訴訟法第五一一条、第三六二条により被告人に無罪を言い渡すべきものとし、主文のとおり判決する。

(干場義秋 谷口貞 横山武男)

別紙〈略・本誌三三九号二五二頁以下に登載〉

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